「それって官能小説?」
高校生の時、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでいてクラスメイトに声をかけられた。
え、違うよね?
当時の私はそもそも官能の意味が分からずしどろもどろになったうえで、「違うよ」と言ってみた。
そのクラスメイトの口ぶりが少し見下しているような下世話な話をしているようなものだったので、そこから推察した結果だったように思う。
ていうか、今思うと失礼過ぎない?
クラスメイトへの私の返答は間違っていなかった。
でも、村上春樹の『ノルウェイの森』は正直性描写多すぎて、なんでベストセラーになってるの~と思いながら読んでいた。
村上春樹はノーベル文学賞候補として毎年騒がれている作家さんだしファンも多いから、面白い小説なんだろうとは思うんだけど、これだけ性描写の多い小説が世界的にも評価されている理由がどうにもよく分かっていない。
絵画でもそうだけど、芸術的な官能とAVやエロ漫画で表現される官能は、違うということは分かるんだけど、一方は世間から隠されていて、一方は表舞台でベストセラーにもなる。
両者にそこまでの大きな違いがあるとは私は思わない。
エロを衛星放送で流そうとした「全裸監督」の村西とおる監督の感覚に近い。私は衛星で流そうとは思わないけど。
今回の『風の歌を聴け』にも少しだが官能的なシーンが登場する。
というか主人公は女の子にモテモテでセックスもしすぎ。時代だろうか。時代だよね。時代だと言ってくれ。
著者とあらすじ
▼著者
1949年、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。 在学中にジャズ喫茶「ピーターキャット」を開く。 1979年に処女作『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。 主な長編小説に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)、 『ノルウェイの森』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、 『海辺のカフカ』(世界幻想文学大賞、ニューヨーク・タイムズThe10 Best Books of 2005 )、 『アフターダーク』、『1Q84』(毎日出版文化賞)、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『騎士団長殺し』など。 ほかにも短編小説集やエッセイ集、紀行文など多数。 スコット・フィッツジェラルド、トルーマン・カポーティ、レイモンド・カーヴァー、J.D.サリンジャーといった 海外作家作品を翻訳。フランツ・カフカ賞(2006年)や、エルサレム賞(2009年)、 ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞(2016年)など海外文学賞も多く受賞。著者
▼あらすじ
村上春樹のデビュー作
1970年夏、あの日の風は、ものうく、ほろ苦く通りすぎていった。僕たちの夢は、もう戻りはしない――。群像新人賞を受賞したデビュー作
1970年の夏、海辺の街に帰省した<僕>は、友人の<鼠>とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。2人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、<僕>の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。
女の子との出会い
彼女は決して美人ではなかった。しかし「美人ではなかった」という言い方はフェアではないだろう。「彼女は彼女にとってふさわしいだけの美人ではなかった」というのが正確な表現だと思う。
村上春樹『風の歌を聴け』講談社2004年100頁
『風の歌を聴け』に出てくる女の子たちは気の強い言動をすることもあるが、はかなげで魅力がある。
でもたぶん私は彼女たちの友人にはなれない。そんな感じ。
「僕」は、バーで介抱したのをきっかけに女の子と仲良くなる。
まず、私はお酒が飲めないので、バーでお酒を飲みそして女の子と出会うという流れがまず信じられない。憧れるわあ。
ビールを浴びるように飲む、少し自分を犠牲にしたような飲み方には色気がある。
まだ二十そこそこの主人公「僕」なぜすでにお酒に強いんだ。
そんなことはよくて、「僕」には3人の女性と付き合った過去がある。しかも最後の一人が自殺している。
そして、今回介抱して仲良くなった女の子は4人目である。
この物語は「僕」の視点から「僕」の話が続くが、軸となっているのは女の子たちとの出会いである。
一人目、二人目、三人目、そして今回であった女の子。自分の人生の大部分を恋愛で過ごしているようだ。
けっして毎日をSNSやYouTubeだけで溶かし続ける人生じゃない。書かれたのが40年以上前だから今と違うのは当たり前だけど、それだけじゃない自分の生きる世界とは空気が違うそんな感じがする。
「ねぇ、女って一体何を食って生きているんだと思う?」「靴の底。」「まさか。」と鼠が言った。
村上春樹『風の歌を聴け』講談社2004年98頁
そして、女の子に対する目線も、決して下に見ているとかそういう訳じゃないんだけど、不思議なもの深いところは理解できない神秘的なものとして描かれている。
「靴の底」ってなに?インソールってこと?
女の子も「人は何故死ぬの?」とか聞いてきたりする。
こんなことを私は一生恋人に聞くことないと思うな。
会話にそういう理想的な美しさを感じる。
この世界はミミズの脳味噌
「宇宙の複雑さに比べれば」とハートフィールドは言っている。「この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。」そうであってほしい、と僕も願っている。
村上春樹『風の歌を聴け』講談社2004年160頁
あとがきにかえて、の最後の文章にこう書かれていた。
村上春樹さんは僕も願っている、と書いた。
つまり、この世界はミミズの脳味噌のようにつまらなくて、しょうもなくて、取るに足らないものであるにもかかわらず、私たちから見たこの世界はとてつもなく大きくて、辛いことも多くて、自分ではどうにもならないような大きな力が働いているような気さえする。
でも宇宙の広大さから見たら私たちの存在何て本当にちっぽけなもの。
その程度のものであることが望ましい。
私たちは自分のことを重大に捉えすぎている。
『風の歌を聴け』は何の話だろうか。
「僕」の青春の一片であるのであろうが、それは宇宙という果てしない物語の中にある、ごく一部のほんの小さな物語に過ぎない。
そういった俯瞰の上にある諦めをこの物語から感じた。
デレク・ハートフィールド
ハートフィールドはこう言った。
村上春樹『風の歌を聴け』講談社2004年124頁
「君は宇宙空間で時がどんな風に流れるのか知っているのかい?」
「いや、」と記者は答えた。「でも、そんなことは誰にもわかりゃしませんよ。」
「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?」
『風の歌を聴け』では「僕」が影響を受けた作家としてデレク・ハートフィールドという人物についての記述が登場する。
私はてっきり実在した作家だと思ったが、ネットで検索してびっくり架空の作家だった。
「あとがきにかえて」の最終章でハートフィールドの墓参りに行った話などはとてもリアルで、村上春樹が実際に行ったんだなあくらいにしか思ってなかったが、これも作品の一部ということか。なるほど。
作中作として出てきた火星の話も面白かった。
私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきり空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。
村上春樹『風の歌を聴け』講談社2004年123頁
おわりに
村上春樹さんの本は、高校生の時に読んだ『ノルウェイの森』以来でしたが、その時の村上春樹のイメージと今回の『風の歌を聴け』で感じたイメージはそこまで大きく変わらなかったように思います。
まあ前回読んだのがかなり昔なので、覚えているか微妙なところですが、
「僕」という主人公は、何か確固たる目標を持つわけでもなく、誰か一人の人を愛しているわけでもなく、若くて可能性に満ちてはいるけれど、今後どうなっていくのか、自分の意思で生きているというよりは流されながら生きている。
これも一つの青春の形。
大学生の時、戦争や平和について、この国の憲法について、ジェンダーや差別について、よく議論をさせられた。
どちらかと言うと、現実ではなく議論のための議論をしていた頃。
浮世から離れて過ごしていたあの頃。
彼らもこれから就職して社会でもまれて変わっていく。
それが分かっているからこそのはかなさがある。
古典を読み始めようと思った理由を書いています。近藤さんの本に出会わなかったら一生古典を読まなかったと思います。



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