「古典100冊読破チャレンジ|働きながら人生を変える名著を読む」
ただ今、100冊選書に挑戦中です。
一冊目には谷崎潤一郎『春琴抄』を選びました。
はじめに
あなたは愛する人のために目をつぶせますか?
私は無理です。すでに視力は悪いですが、だからといってつぶすのは無理です。怖いから。
『春琴抄』は愛する人のために目を潰し盲人となった男の話です。
なぜそこまでして愛する道を選んだのか?
なぜ視力を失う必要があったのか?
男にそこまでさせた女とはいったいどんな人物なのか?
ちなみにその女は「容姿端麗にして高雅なること譬へんに物なし」とあり、
とてもきれいな人だったんですね。
でも私は怖いから目はつぶせません。
古典への入り口として
先日、波留主演の「月夜行路1」というドラマを見ました。
大坂の道修町は『春琴抄』の舞台となった町であり、そこに立ち寄った主人公により『春琴抄』が紹介されていました。
ドラマではアニメーションであらすじを紹介しており、『春琴抄』が今時な美男美女で描写されています。
「盲目の美女」が出てくるというだけで、ふらっと手に取ってしまったけれど、古典を100冊読むとして、読む順番って気の向くままでいいのかしら、とは思いました。
それに、谷崎潤一郎と言えば、『痴人の愛』や『細雪』は知っていましたが、恥ずかしながら『春琴抄』という作品については何も知らず、
近藤康太郎さんがなぜ他の名作ではなく『春琴抄』を100冊選書に選んだのかも気になりました。
巻末についていた年表を見ると、刊行された順番は『痴人の愛』→『春琴抄』→『細雪』となります。
今は青空文庫でネットでも無料で読めるようです。
私はもともと本は紙で読む派なので、書店で購入して読みました。価格も安いですしぜひ皆さんも手に取ってみてください。
長年たくさんの人に読み継がれてきた、だからこそ古典であり、多くの人がこの本を楽しみ、研究し、解釈を加えています。
今まで古典をほとんど読まずに生きてきたので少し言葉が難しかったですが、短かったのでわりとすぐに読めました。
ざっくりあらすじ
目の見えない盲目の美女を献身的に支える男の話。彼女に自分の人生のすべてをささげて尽くし、最後には彼女のために自らも盲人となる。
主人公は主に二人。美人で盲目の主である春琴と、それを献身的に支える身の回りの世話をする佐助。
作者とあらすじ
▼作者
谷崎潤一郎
1886-1965)東京・日本橋生れ。東大国文科中退。在学中より創作を始め、同人雑誌「新思潮」(第二次)を創刊。同誌に発表した「刺青」などの作品が高く評価され作家に。当初は西欧的なスタイルを好んだが、関東大震災を機に関西へ移り住んだこともあって、次第に純日本的なものへの指向を強め、伝統的な日本語による美しい文体を確立するに至る。1949(昭和24)年、文化勲章受章。主な作品に『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『細雪』『陰翳礼讃』など。
▼あらすじ
盲目の三味線師匠春琴に仕える佐助の愛と献身を描いて谷崎文学の頂点をなす作品。幼い頃から春琴に付添い、彼女にとってなくてはならぬ人間になっていた奉公人の佐助は、後年春琴がその美貌を何者かによって傷つけられるや、彼女の面影を脳裡に永遠に保有するため自ら盲目の世界に入る。単なる被虐趣味をつきぬけて、思考と官能が融合した美の陶酔の世界をくりひろげる。
私と同じ初心者の方へ
なんか、読みにくいぞ、途中からそう思って読むのがぐっと遅くなった。
気づいたら一文がすごく長かった。2~3文が「。」なしでくっついているので、どこまでが一文なのかうっかりすると見落とします。
分からないですが、こういうものだと思って読むしかないです。
盲人としての春琴のプライド
春琴・・・琴が得意。美人。お嬢様育ちでわがままな性格。9歳の時に視力をなくす。
佐助・・・春琴よりも4つ年上。春琴の家に代々奉公している家系。春琴の世話をする。
目の見えない春琴は、奉公人である佐助に、身の回りの世話をさせる。外出する時の手引きをさせる。
春琴はどうしたって何をするのにも目が見えないから、誰かに手伝ってもらう必要がある。
良家の生まれでプライドが高い春琴は、盲目であることで人から舐められたくなかった。
「佐助は彼女の笑う顔を見るのが厭であったという蓋し盲人が笑う時は間が抜けて哀れに見える佐助の感情ではそれが堪えられなかったのであろう」
谷崎潤一郎『春琴抄』新潮社1951年21頁
このような描写は現代にはあまり見られない、不謹慎だなあと思って読んだが、私のこの感覚は当時にはなかったということである。
当時は検校という盲人のつく位があったくらいだから、今よりも社会的地位が高かったのだろうか?
現代において、目が見えない人に関して何かを言及・指摘することが不謹慎と考えるのは、逆に健常者よりも障害者が劣っていると理解しているからこそ出てくる発想なのだろうか。
いくら検校などの位が存在していても、春琴は健常者から自分が下に見られかねないと思っていたことは確かで、その高いプライドを守っていたのが佐助であった。
佐助、お前はドMなのか?
春琴の強情と気儘とは斯くの如くであったけれども特に佐助に対する時がそうなのであって孰れの奉公人にもという訳ではなかった元来そういう素質があったところへ佐助が努めて意を迎えるようにしたので、彼に対してのみそその傾向が極端になって行ったのである(中略)佐助も亦それを苦役と感ぜず寧ろ喜んだのであった彼女の特別な意地悪さを甘えられているように取り、一種の恩寵の如くに解したのでもあろう
谷崎潤一郎『春琴抄』新潮社1951年23頁
春琴は佐助に三味線を教えるようになる。師弟関係になり春琴は、佐助にとても厳しく教えるようになる。
体罰も暴言も日常茶飯事だ。私たちからしたら異常な状態なのに、なぜか佐助うれしそうだ。
春琴が美しいから、好きだから、一緒にいられてうれしい。それは分かる。
例えば、小さい子供は、生意気な方がかわいく見えたりする。わがままな方が世話を焼きたくなったりする。
佐助と春琴が出会った時、春琴はまだ9歳がそこらで、佐助は13歳であった。
「特に佐助に対する時がそうなのであって孰れの奉公人にもという訳ではなかった」春琴のようなとてもかわいらしい少女が、しかも自分にだけ意地悪く接してくる。
自分にだけ甘えてくれている、そんな感じだろうか。
子供と子供の話としてみれば少しは理解できる。
ひどい態度をとる春琴も、おそらく佐助を心から嫌っていたわけではなかっただろう。
目が見えないから誰かに助けてもらう必要があるし、もともとお嬢様育ちだから人にしてもらうのが当たり前の認識も持ち合わせていた。
春琴は佐助の性格も分かったうえで、見捨てられない程度に、わざとわがままを通していたのではないだろうか?
そして普通の人であれば嫌気がさしてしまうところ、佐助は春琴のわがままをかなり許容したため、春琴もそのわがままに歯止めが利かなくなっていったのだと思う。
二人がよしとしているならば、外野は何も言いますまい。
自分の家来と結婚するなんて考えられない。
旧家の令嬢としての矜持を捨てぬ春琴のような娘が代々の家来筋に当る佐助を低く見下したことは想像以上であったであろう。又盲目の僻みもあって人に弱みを見せまい馬鹿にされまいとの負けじ魂も燃えていたであろう。ともすれば佐助を我が夫として迎えるなど全く己れを侮辱することだと考えたかも知れぬ
谷崎潤一郎『春琴抄』新潮社1951年46頁
今職場にそういう人がいるから思うけど、常に見栄を張っている人、たぶん自分に自信がないから自慢したりマウント取ったりしないとやっていけない人、弱みを見せまいとする人。
そういうふうに生きることは否定しないけど、よそでやってくれ、と思う。
こういう人たちとは正直まともに会話ができない。全部彼らの自慢話になるか、何かを教えてもらう形になるかのどちらかになるから。彼らは自分がしたい話しかしない。
そして彼らは常に人と自分とを比べながら生きている。
春琴が佐助と正式に結婚しても、誰も気にしないと思うけど。春琴にはそれが屈辱なんだね。
身分という概念が今はないから余計に理解ができない。フィクションでしか知らない。
そしてフィクションの身分違いの恋は、当事者たちはお互いの身分を気にしない。好きになってしまったら身分なんて関係ない。気にするのは周りの大人達だけ。
だから春琴のように好きな相手がいるのに、身分をここまで気にするヒロインはあまり見かけない。
それこそ自分の身分が低くて相手に気をつかってなら分かるけど、自分の身分が高い場合、それは保身だからカッコ悪い。そんなイメージは正直ある。
そこに愛はあるんか?
そもそも『春琴抄』はいわば身分違いの恋?愛?なのであろうか。
だがロミオとジュリエットにはない違和感がある。
春琴も佐助もちょっと異常だ。彼らは本当に愛し合っていたのか。
『春琴抄』は当事者目線ではなく、後世に春琴と佐助の墓を訪れた語り手が「鵙屋春琴伝」という小冊子をもとに実際に書いてあることや、彼らがどう思ったかを想像して語っている。
だからか私には佐助はともかくとして春琴からは、佐助への愛があまり感じられなかった。
佐助が春琴のために盲目になったときでさえ、春琴自分のことばかりである。
(前略)よくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰の恨みを受けて此のような目に遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。
谷崎潤一郎『春琴抄』新潮社1951年82頁
佐助が盲目になってくれたのはうれしい。なぜなら熱湯をかけられて醜い容貌となってしまった今、そのすがたを佐助だけには見られたくなかったから。
それは佐助が好きだからなのか?好きな人には自分のきれいな姿だけを見てもらいたいというあれか?でも普通、目を潰してくれたのを喜ぶだろうか?
佐助が春琴に盲目になった事を告げた時、さすがに春琴怒るのかなと思ったんです。そんなことする必要なかったんだよって、言うのかなって。
だけど、春琴の言葉を聞いて喜ぶ佐助も佐助です。
あ、あり難うござり升そのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬ(中略)佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた
82頁
結局二人はお互いを思って涙を流すのですが、
まあ二人が納得しているのなら私は文句はありません。
猟奇的でピュアな師弟愛への疑問
宜しく此の辺の事情を察すべきであるつまり目下の人間と肉体の縁を結んだことを耻ずる心があり反動的に余所々々しくしたのであろう。然らば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろう乎多分意識的にはそうであったかと思われる
谷崎潤一郎『春琴抄』新潮社1951年46頁
なんだかんだ言いながら春琴と佐助には子供ができている。しかも一人ではない。
まだまだ物語も序盤の内に春琴が急に妊娠します。
春琴、佐助にあんなにつらくあたっていたのに、やることはやってんの?!と驚いちゃいました。
しかも父親が佐助であるとばれたくなかった春琴は、妊娠した時誰にも父親が誰なのか頑なに言わない。なんて強情な。
私には春琴が自分の地位と気高さを守るのに終始必死なように見えます。
私が買った新潮文庫の帯には「天才・谷崎が描いた猟奇的でピュアな師弟愛」と書いてありましたが、本当に彼らの愛は「ピュア」なものだったのでしょうか。
ピュアとは混じりけがなく、純粋ということですよね?
彼らの愛は、ピュアなものだったのか、私はそうは思いません。
春琴も佐助も、自分のために行動していたに過ぎないとそう読みました。
春琴の行動原理が自分の高貴を保つためだったのは言わずもがなですが、佐助も春琴に尽くすこと自体が楽しくて嬉しくて奉公していたのでしょう。推しのために何もかもささげる、視力までもささげる、そうすることで自分の喜びを得ていた。
愛、といえばそうなのかもしれないが、ピュアな推し活とは言わないように、佐助の愛も純粋なものというよりは自分のために春琴を愛していたように感じられてしまうのである。
彼らはたまたま利害が一致したのかもしれない。
私は彼らがそれでいいのなら文句はないんですけどね。
おわりに
ぱっと読んだだけでは、『春琴抄』のどのあたりが古典たる所以なのかまだよく分かっていません。
まだ一冊目なので、これから「古典」が分かってくると信じて読み進めていこうと思います。
長年たくさんの人に読み継がれてきた本です。
他の方がどのような読み方をしているのかも、ぜひ調べてみてください。
- 2026年4月スタートのドラマ ↩︎



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