自分を表現する「エロはタイトだよ」『二木先生』が漫画を描く理由と全裸監督について

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ましまし

最近になって急にNetflixの『全裸監督』を見た。

2019年8月に配信され世間で話題になっていたのは知っていたが、AV業界にそんなに興味もなく、当時私は実家暮らしだったため見なかったが、なぜ今かというと

『地面師たち』『サンクチュアリ』とNetflixオリジナルドラマを連続して鑑賞しそのクオリティの高さに慄き、他の作品を探していたからであった。

実際『全裸監督』は評判通りの良質ドラマであったが、なにより黒木香役の森田望智を始めとする女優さんの体当たりな演技は本当に素晴らしくて

というより本物にしか見えなくて、

実家で見なくてよかった~と思ったものである。

書評ブログであるからドラマの感想はこのくらいにして、このドラマを見て思い出した一冊『二木先生』に触れながら思ったことを綴っていきたい。

なぜ連想して『二木先生』を思い出したのか。

それは、二木先生がエロ漫画家だからである。

作品紹介

▼『全裸監督』                                           ド狂乱のバブル経済に沸く1980年代を駆け抜けた村西とおるの半生を描く。村西はうだつの上がらないサラリーマンだったが、あることをきっかけにAV業界へと流れ、やがて革命的成功を収めていく。だが、監督自身の破天荒な言動によるトラブルや、警察による取り締まり、ライバル企業の妨害活動、社員の横領、さらには裏社会のヤクザまでが入り乱れ、成功者となった村西の転落していく様が描かれていく1

Netflixで『全裸監督』を見る                                   

▼『二木先生』                                           どうしたら普通に見えるんだろう。どうしたら普通に話せるんだろう――。いつもまわりから「変」と言われ続けてきた高校生の田井中は、自分を異星人のように感じていた。友だちが欲しいなんて贅沢なことは言わない。クラスのなかで普通に息さえできたなら。そのためならば、とむかしから好きでもない流行りの歌を覚え、「子供らしくない」と言われれば見よう見まねで「子供らしく」振舞ってもみた。でも、ダメだった。何をやっても浮き上がり、笑われてしまう。そんな田井中にとって唯一の希望は、担任の美術教師・二木の存在だった。生徒から好かれる人気教師の二木だったが、田井中はこの教師の重大な秘密を知っていたのだ。生きづらさに苦しむ田井中は二木に近づき、崖っぷちの「取引」を持ち掛ける――。社会から白眼視される「性質」をもった人間は、どう生きればよいのか。その倫理とは何か。現代の抜き差しならぬテーマと向き合いつつ予想外の結末へと突き抜けていく、驚愕のエンタテインメント。2019年ポプラ社小説新人賞受賞作2

エロは、タイトだよ

「エロ漫画描くのに考えるもクソもあるんですか?」「あるよ」断言だった。

「エロはタイトだよ」

夏木志朋『二木先生』ポプラ文庫2022年180頁

『全裸監督』はAV業界に革命を起こしていく村西とおる監督の話だ。

それを見ていて思い出した。「エロは、タイトだよ」って言ってた人のことを。

小説『二木先生』は夏木志朋のデビュー作であり、あらすじには、社会からはじき出されてしまう個性を持つ人間がいかに生きうるかを描いた作品であると書かれている。

この本の主題はあくまで、生きづらい個性を持ちながらどうサバイブしていくかということにあり、実際、登場人物である二木先生は小児性愛者である。

そして、エロ漫画家なのである。

『二木先生』では、誰しもが抱えている「自分にはどうしても人と違うところがある」という思いと、それとどう向き合って生きていけばいいのか、その具体的な処世術までが描かれる。

読み進めていくと不思議なもので、小児性愛者でありエロ漫画家である二木先生のことを私たちはどうしても他人事としては思えない。

他者に理解されない個性を持つことがどんなに苦しいことなのか、それでも自分をつらぬこうとする二木先生の生き様を、この小説は私たちのために描いてくれる。

主人公の田井中も、自分と二木先生の共通点を見出したからこそ、彼の生き方にあこがれを持った私たちのうちの一人である。

その共通点の一つは、「他人に受け入れられない個性」であり、もう一つが「何かを通じて自分を表現すること」だったのではないだろうか。

二木先生は、自分の個性を消さずに生きているだけじゃない。

他人から煙たがられるような個性を持ちながらなお、自分を表現しようとしていたのである。

自分を表現する人々

死にたくなったら下を見ろ、俺がいる

全裸監督シーズン2第8話

「自分を表現する」

これは『全裸監督』にも共通するテーマだ。

正直今までの私は、アダルトビデオとそれに出演する女優に対する認識がよいものだったとは言えず、どうしてもよく知らない怖い業界、人の欲望まみれた世界、のイメージがぬぐえなかった。

しかし、『全裸監督』を通して描かれたのは、ただいいものを作りたいというクリエイターの物語であり、才能と才能が出会い、新しいものが出来上がるその瞬間であった。

監督の、自分が作りたいものが素晴らしいものになることを信じて疑わない、その自信と行動力には終始驚かされてばかりだったが、

出来上がる作品の熱量はとても高く、フィクションであるということを忘れて見入ってしまったし、

熱量が高いがゆえに、少しでも妥協や自信を失うと、周りはすぐに離れていってしまう。

しかしシーズン2の最後のセリフの潔さときたら、離れていった心をまた取り戻すことのできる、この人の強さがあったように思う。

二木先生はエロをタイトだと言った。

『全裸監督』で描かれるエロと『二木先生』で描かれるエロは全く種類の異なるものであるが、両者ともプロとして誠実に向き合っていることに変わりはない。

そして彼らはエロを通じて自分を表現する。

二木先生はなぜエロ漫画を描くのか

二木先生がエロ漫画家であることに違和感を抱いていた。

『二木先生』という作品が、小児性愛者であることによる生きづらさを主題に置くのならば、何も漫画家である必要も、さらにエロ漫画家である必要はなかったように思う。

なぜ二木先生はエロ漫画を描くのか。

その答えが全裸監督にあった。

彼らはクリエイターであり、ただ面白いものを新しいものを心震えるものを作りたいだけだったのである。

二木先生に関しては、自分の特殊な性癖と向き合い、自分というものを憎み嫌い卑下した時期を通じて、自分らしくあること、自分を表現することで生きていく道を選んだ。

それはまた『全裸監督』に登場する黒木香に関しても同じことが言える。

抑圧された母との暮らし、偽りの自分から抜け出して、自分らしく自由にありたいとアダルトビデオへの出演を決める。

そこにはかつての自分へのコンプレックスと、ただ自分らしく表現をしたいという欲望がある。

つまり、彼女もまたありのままの自分でいるため、それを表現するための

エロはその手段であったのだ。

何をもって表現するのかはそんなに重要なことではないのかもしれない。

ある人にとってはそれが文章であるし、スポーツかもしれない。推しにのめりこむ人生だって、倹約し続ける人生だって、それが自分らしさであれば、何であろうと問題ではない。

もちろん作品としての面白さと主人公が小説を書くという流れの中での最適解が二木先生=エロ漫画家という可能性は大いにある。

しかし、当人にとっては自分を表現するための手段でしかなく、それはそれほど大事なものではなかったのだと思うのである。

↓本日ご紹介した本

  1. 全裸監督 – Wikipedia ↩︎
  2. ([な]17−1)二木先生|ポプラ文庫 日本文学|小説・文芸|本を探す|ポプラ社(2025年11月) ↩︎

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